温故知新 ~サヌキとアワのサトリ~

相似象のサヌキとアワの紹介です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

人間の差なぞ大したものではないのに大きな違いにしてしまうモノ ①

 所謂「心」とよばれるものにも<ミ>と<イ>の違いがあるということは、一口に素直とか真面目などと言っても

人によって根本的なサがあるということであり、愚かや、軽薄さ、真剣さにも、また、絶望の仕方や尊敬や信頼の仕方

にも、したがって人々の神秘思想の程度にも、<カタカムナ>に対する感じ方にも・・・、全てに、<ミ>と<イ>の、

大きな波動量の違い がある、ということである。

 しかしその差異を徒に気にしてみても仕方が無い。要するに「サヌキ型人間」であろうが、「アワ型人間」であろうが、

また、師の波動量が多いの弟子が少ないのといっても、実は、人間の間の生まれながらの差なぞは、大したもの

では無い。 それを 大きな違いにしてしまうのは、自分自身の愚かさ、低さ、無知さ を、 どこまで感じてい

るか?
 である。 






スポンサーサイト
  1. 2013/08/31(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<イ>の心と<ミ>の心 (環境の参与) ③

 ここまで、「サヌキ型」「アワ型」についてこまごま記してきたが、<カタカムナ>の 潜象物理用語を使えば、

<イ>と<ミ>の一ことで、大部分の説明は片付く
 のである。つまり、「サヌキ型人間」は<イ>の心で愛したり

思考したり欲望を持ったりして生きている。それ故もしサヌキ型人間が、自分の性来のタイプに気付き、アワ性の鍛錬

に努めることがなければ、<ミ>の心は殆ど開発されずに終る しかないものである。(実際には、それをしないの

が低次のサヌキ型の特徴である。)

 「アワ型人間」は、本来は<ミ>を指向するものであるが、正当にアワ性が開発されていないと、やはり 低次の

サヌキ性しか出せず、<アワ>の心を発揮することが出来ない。
 それ故、カタカムナの哲人は、<フトマニ>

のサトリを
 説いたのである。そしてその為の エネルギーの補給法 (イヤシロスベ)として、<アマウツシ>

<カムウツシ> を教えたのであった。






  1. 2013/08/30(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<イ>の心と<ミ>の心 (環境の参与) ②

 このことは、<サヌキ>の性が <イ>の次元即ち現象面に於いて もっぱら働くものであり、「サヌキ型人間」は

その特徴を受け継ぐものであるから、当然の成り行きなのである。

 サヌキ型もアワ型も、誰でも、<イ>の心と<ミ>の心を持たぬ者はいないのであるが、<イ>の次元しか、意識す

ることは出来ない。(例えば、『妻子を愛し家庭を大切にしていた男が、他の女と心中した』というような事件を、世人

は理解できぬというが、これも上古代語で説明すれば瞭然とする。『人並みに妻子を愛していたおとなしい男』という

のは、彼の<イ>の次元の大脳波動を見ていたのであり、『他の女と心中』したのは、彼の<ミ>からの行為だった

のであろう。<ミ>の方が<イ>の波動より根源的なものだから、おそらく彼は、かつて知らなかった<ミ>の共振波

動に殉じたのであろう。)

 (あるいはまた、逆に、男のサヌキ性が、「女難」に引きずられて、<イ>の次元で、<ミ>を過ったのかもしれぬ。)

いずれにしても、「自殺」という行為は、アワ量不足か、またはエネルギー欠乏の故の 歪み現象 であることはしば

しば述べたとおりである。






  1. 2013/08/29(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<イ>の心と<ミ>の心 (環境の参与) ①

 「心」と一般によばれるものにも潜象物理用語で言えば、<イ>の心と<ミ>の心とがあり、<ヤ>(その人の大脳

智能の極限)まで進行するものである。

 <イ>の心とは、大脳次元の二次波動に属する 現象系の精神作用 であり、

 <ミ>の心とは、<イ>を発生させる 無意識領域の潜象状態 である。

(本来の日本語では、<ミ>の感受性を「マゴコロ」とよび、<イ>の次元を単に「心」または「アタマ」等といっていた)

 「サヌキ型人間」は、利害に反すれば長年の親友も忽ち疎ましく感じ、昨日の恩人も敵に回し、百日の説法も何とや

ら・・・、そして彼らはその原因を自分の「サヌキ性」の故とは思わず、「相手のせい」にして内心の合理化を計るもので

ある。(古今の英雄賢者たちの離合集散の歴史は、これら「サヌキ型人間」のなすわざであった。)






  1. 2013/08/28(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

旅先で眠れぬとか便秘する方がマトモ ④

 それからまた、サヌキ性を偏重する現代教育が、現象のものにしか関心の持てぬサヌキ型人間をのさばらせるの

は 必然の結果 であるのに、当の責任者たち まで、現代の若者たちが、あまりにも物質的満足を追い、精神性

や宗教性に乏しいと非難したり嘆いたりするのは、無知・無反省も甚だしいものだ ということに思い当たられたで

あろう。また、低次のサヌキ型人間は、現象系のことに対応して働く能力しかないのに、そのアタマで「神」や「心」や

「生命」などの潜象界を判断しようとすれば、現在のような神秘宗教や、哲学科学の混乱をきたすのも当然であった、

と納得されたであろう。そしてまた、有史以来「サヌキ性」を鍛え抜いた西欧文化に、かえって「アワ性」を尊重する

半面があったことにも気付かれるであろう。






  1. 2013/08/27(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

旅先で眠れぬとか便秘する方がマトモ ③

 『イヤ、そんな事は無い。私は今までにも充分反省してきたし、性格の改善も出来たし、どこでもよく眠れる』等と、

もし反撥を感じられる読者があれば、それは「サヌキ型人間」であり、『本当にそうだ』と頷かれるとすれば、それは、

「アワ型人間」だといってよいであろう。

 そしてまた、ここまでアワ性を振って読み続けてくださった読者は、「サヌキ型」「アワ型」の判別にもかなり馴れ、

それにつけても 自分達の受けた「現代教育」 が、いかに 「サヌキ性」を無批判に助長  し、 「アワ性」を

失わせるもの
 であったか! に愕然とし、同じ間違った教育をされる位なら、昔の間違い方 (男のサヌキ性を増長

させ、女のサヌキ性をひたすら抑圧した)の方がましだった、と思われるであろう。(筆者自身戦前のような教育は二

度とされたくない。と同時に、現代教育はなおさら嫌である。)






  1. 2013/08/26(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

旅先で眠れぬとか便秘する方がマトモ ②

 しかし「いかにマトモな神経」とはいっても、(また、夜型・昼型の問題などがあって「不眠症」にも無理からぬ原因が

あったにしても、)結局人の眠るべき時間に眠れないということは、反生命的なこと であるから、何とかして眠らね

ばならぬが、そう意識すればするほど眠れない。しかし、その為に、一層自己嫌悪に落ちたり、安易に睡眠薬に頼っ

ていては、低次のアワ型人間の弱みから抜け出ることは永久に出来ない。

 <アワ>の性の本来の マトモな「生命カン」を損なうことなく、 当面の状況に順応させて、安らかな眠りにつく

ことが出来る為には、ここでも「逆序」のサトリがどうしても必要だというのである。






  1. 2013/08/25(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

旅先で眠れぬとか便秘する方がマトモ ①

 旅先で眠れぬとか 便秘するとか、時差に弱いとか、(あるいは「不眠症」などということについても)とかく

「アワ型人間」は、それを 自分の欠点のように 引け目に感じているが、実は、それもまた、<アワ>の本性の

然らしめる当然の反応なのである。馴れぬ場所でいきなり眠れぬ方が マトモな神経 の持主であり、どこでも

平気ですぐ鼾がかけるのは、むしろ「生命カン」が鈍化しているのであり、あるいは訓練の結果、「生命カン」を圧倒

して眠らせているのである。






  1. 2013/08/24(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

何故わからぬとせめるのは物理ではない ②

 この種のサヌキ型人間に、『なぜそんなことをするのか?』と 責めてみても全く無駄 である。まして、

『どうして真に驚くべきものに出合っても驚かないのか?』 『一生の出合いの機会に、なぜヒビキがないのか?』

『なぜ<ミ>の共振波動(感受)がないのか?』 等と彼らをなじることは、しばしば述べた如く、「物理」ではない。

 それは、盲人に向かって何故見えぬか?というようなものである。(というよりももっとまずいのは、<ミ>で受ける

べきものを<イ>で受けてわかる筈が無いのに、一口で言えばその 能力が無いのに 本人はわかったつもりで

いることである。自分のわかり方はアタマの先の<イ>の次元のものだった、ということをわかる<ミ>がないので

ある。)

 彼らの、鍛錬されなかった<ミ>の機能は、無きに等しく劣化し、共振すべき波動そのものを欠如している。

このようなサヌキ型人間に、自分の退化した機能(眠れる脳)を覚まし、劣化した感受性をヨミカエらせることを

期待することは無理 である。アワ性の強い者の発憤に、待つしかない、 という所以である。






  1. 2013/08/23(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

何故わからぬとせめるのは物理ではない ①

 どれ程アワ量の多いコトバも、<イ>の次元でしか受け取れないこの種の人々は、「豚に真珠」よりも始末が悪い。

単に「無価値」に終るだけなら豚並だからまだよいが、人間は、自分のアタマで勝手な解釈をつけ、それが正しいと

主張するからである。

 また、生命に関わる戦争体験とか、一生の恩恵を受けた人への感謝の念とか、あるいは人前で固く誓った自分の

重大な発言など、人間として 決して忘れてはならぬこと も、喉元過ぎればサッサと忘れ去り、その代わり、

スジの通らぬこと も 納得の行かぬこと も、ウヤムヤに通してしまう・・・。要するに、マトモな<ミ>の生命波動

を失ったアタマは、その場その場の利害・感情に従うしかないからである。






  1. 2013/08/22(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ⑥

 このことは、本来、決して難しいことではない。哲学的観念操作などは全く無用のものである。ただ、『人間も生物で

ある』という大原則にのっとり、自分の「愛」を、自分の生命にとって 真に幸せを全うする方向へ向けて、正直に

共振波動を求めればよい。『ミの感受に基いて行動する』という態度をモットーとする生き方を、子供の頃からミにつ

ける教え方
 さえなされていれば、これは決して不可能なことではない筈である。






  1. 2013/08/21(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ⑤

 どの人の「愛」も、主観的には『心から愛している』つもりに違いない。しかし、いやしくも、人間として、もし

真の愛とは何か? というなら、周囲の状況の変化で自分の「愛」まで「心変わり」するような、アタマの先の二次

波動ではなく、生物本来の、<ミ>からの共振波動をもつ、感受性に基くココロの上に、人間としての知性をふま

えた波動量
 (フトマニのサトリ)をもつものでなければならない。

 そのような「愛」の強度は、他の人々の、<イ>の次元のものや動物次元のものとは、ケタ違いのアワ量 (アマ

ナ量)を持つことになるのである。






  1. 2013/08/20(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ④

 「耄碌」ばかりではなく、「心変わり」(離婚などの現象)とか、「己に対する厳しさのない態度」(神秘思想)とかも、

人類社会にのみ見られる現象(ツミ)であり、<ミ>で感受するという 裏付けなしに、<イ>の大脳次元だけで

もっぱら操作される人間の心のいとなみ 
 の、 波動量の少なさ、はかなさ を如実に示すものである。

ただし、動物たちに人間のような 「耄碌」がないのは、呆けるための器官が無いからであり、彼らの方が人類より

上という訳ではない。(皆<イ>の次元の思考である。)






  1. 2013/08/19(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ③

 およそ人間以外の生物は、<ミ>からの波動でなければ <イ>の波動を発動しない。「感受」に基かなけれ

 「行動」に出ないと言うことである。

 それ故、植物も、例えば桜の花は、どんなに老木になっても 若木の桜と 少しも変わらぬ初々しい花を 春ご

とに咲かせている。上枝がすっかり枯れて幹だけになったその根元から一輪二輪咲く花も、少しもヨボヨボしていな

い。 動物も また、心身の老衰ということはあるが、「耄碌」ということはない。老人ボケは人間のみの現象で

ある。
(彼らが記憶を失って子供の心に帰り、昔のことしか覚えていないのは、一生のうちで、その間だけが、彼らに

は<ミ>からの波動で生きた時期であり、呆けて忘れてしまった部分は、<イ>の次元でのものだった、という正直

な証拠である。)






  1. 2013/08/18(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ②

 人々が自分では心からの「愛」や「信仰」と思っているものも、実はしばしば<イ>の次元の波動であったことは、

平穏な時はともかく、前述の如く、ちょっとした状況の変化によって(病気や失業、思わぬ事故や天災、または戦争

や不況等の、境遇や社会情勢の変化によって)、その「心」が動揺し、左右されてしまうことで明らかに現われる。

 もし真に<ミ>から出るココロ(アワ性)であれば、それは、表相の変動を超えて、一生を貫くもの であり、

天然自然のヒビキに通じるもの である。(どんな時もアワ性は生命を損なうものではない。)






  1. 2013/08/17(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

動物次元の自由恋愛  動物に耄碌はない ①

 彼らが「愛」とか「恋」とか思っているものは、ほとんど アタマの先 (イの次元)のものであり、従って状況の変化

で『可愛さあまって憎さ百倍』になったり、思わぬ出来事で破局がハッピーエンドに場面展開したり、またその逆

だったりするのが常である。といって、その程度の底の浅さに反発した若者たちが、「自由恋愛」 をうたってみても、

せいぜい 動物次元の共振波動に 終っている。

(実際にはゲーテの言うとおり動物よりも『けだもの臭く』なるのがおちである。)





  1. 2013/08/16(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

注意すべきこと

 ここで 注意を要する のは、『自分の内なるもう一人の自分・・・』などという、 ミの波動で感受する(ヒビク)

べき言葉
 も、<イ>の次元でしか聞かれぬ者 には、思い違いをされてしまうことである。なぜなら、彼らには、

アタマ(大脳次元)で感じることと、<ミ>で感受する(ヒビク)こと の弁別がつかぬから、大脳の「意識」の

次元で自分を見ている状態を、ミからのものと思い込み、『自分もそうだ・・・』と錯覚し、(低次のサヌキ型人間ほど

自分はアワ型だと、アタマで思うのが常で、)自分は充分反省し、情け深く、自己制御のきく人間であると自負し、

その自信が、ますますサヌキ性を助長することになるからである。この種の人、即ちミとイの違いの分からぬ人、

要するに、ミの共振波動をもたず、アタマの先でしか判断行為できぬ 人が、現実にはどんどん増えている。






  1. 2013/08/15(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

もう一人の自分 (ミの波動で聞くべき言葉) ②

 それ故アワ型人間は、そうした屈折した気分が自分特有の 個人の性質(ミ)ではなく、<アワ>の本性から二次
的に大脳波動に出た(<イ>の次元のもの)に過ぎぬことを認識すれば、不必要に自虐することを防ぎ、自分の中の

「サヌキ性」を 鞭撻してバランスをはかる ことが可能となる。(アワ型人間は絶望感に陥るが、絶望はしない。

サヌキ型人間は絶望はしないが、しばしば絶望的である。)

 しかしながら一般に、サヌキ型人間もアワ型人間も、何となく自分自身のそうした性格に気付き、反省し、改善しよう
と志しても極めて難しく、また、タイプの違う相手を理解しようとしても殆ど不可能であった。私共はその 不可能に近
いほどの難しさ
 は、どこに原因があったか?を究明し、どうしても、<サヌキ><アワ>のサトリの認識が必要

だというのである。






  1. 2013/08/14(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

もう一人の自分 (ミの波動で聞くべき言葉) ①

 要するに、同じ状態の下にあっても、サヌキ型人間なら無邪気に自分を肯定し、自分の才能に自惚れ、自分の子を

ほめられているのに、アワ型人間は、いつも自分の内に もう一人の自分が住んでいて、どんな時にも自分を監察

し、批判している。『どうしても、そうしなければ 自分の気がすまない 』のは、つねにこの、自分の 内なる潜象

の力
 が、無意識のうちに、即ち<イ>の次元よりも奥の <ミ>の過程に於いて、判断行為の基準として、強く

働いているからである。その為に、サヌキ型人間のようにマッスグには出られない。どうしても劣等感、絶望感、罪悪

感、卑下意識等の屈折した執着気質を育てやすく、鬱々たる気分 に陥りやすいのである。






  1. 2013/08/13(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

アワ型人間でも自己を現わすではないかという疑問 ②

 即ち、<アワ>とは、 生命を生み出す力 であり、産む為には、独りでは発生がない。自分の産みたいものを

産ませてくれるモノがほしい。アワ型人間のサヌキ性は、その心から出ている。それ故、自己を表現すること自体に

生き甲斐を感じ、又それが世に出て、もてはやされる事に喜びを覚えるサヌキ型人間のサヌキ性とは、本質的に

異なる
 のである。むしろ対向発生の相手を得られずに、自分の作品だけが有名になることには 空しさしか感

じられぬ
 のは、<アワ>の本来性から出てくる、アワ性の強い者の本心 なのである。






  1. 2013/08/12(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

アワ型人間でも自己を現わすではないかという疑問 ①

 このように述べてくると、しかし アワ型人間でも 歌をよみ文を書き、また絵や音楽や舞踏などをしたいという

気持ちはあるし、大いに 自己を現わしている 者もあるのではないか?という 疑問 が出るであろう。

 それに対しては、『アワ型人間にもサヌキ性の強い者もあるから・・・』という「四相のサトリ」の説明で通る程度の

者もあるが、しかし 真にアワ性の強い者の場合 は、あらわれた現象は同じでも、サヌキ型人間の自己顕示

欲の現れ
 とは、おのずから異なるものがあるのである。

 どう違うかといえば、<アワ>の本性は、対向発生の相手を求める ものである、というところに原因がある。





  1. 2013/08/11(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<アワ>の性をつきつめる ⑤

 アワ型人間も、サヌキ型人間と同じく、結局は、自分の生命を 保全したい、出来るだけ良い思いをしたいという

本心に変わりはないのだが、それが マッスグに出せない。出しても良い場合でも、自らにためらい、恥じらいの

気持ちがあり、自分を先立てることに何か、ツミの意識がつきまとう。つまり、それが<アワ>の本性の為すところ

なのである。

 したがって容姿一つについても、たとえば目が細いとか色が黒いとか、背が高くても低くても、何かにつけて、

サヌキ型人間なら、個性的だとか魅力的だと思っていられるところを、アワ型人間にはそれが 卑下悲感のタネ 

となるのである。まして少しでも異常や障害があると不安は取りとめもなく拡がり、サヌキ型人間が人前に自身

をさらして歌ったりしゃべったりすることに喜びを感じ、世間の人々が又それをよしとする習慣に同調できず、

アワ性の強い者ほど、ノイローゼ、神経症などといわれる 自虐の方向 をたどるものである。






  1. 2013/08/10(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<アワ>の性をつきつめる ④

 また、アワ型人間は、人間だけでなく、動物や植物、虫や魚に至るまで、生あるものの苦しむ姿や死ぬのを黙って

見てはいられない。他人の怪我を見ると自分の身が痛み、他者の不幸も我がことのように響いて堪え難く思う・・・。

紙一枚でも、糸一すじでも、古いビニール袋一つすら、無下に捨てられない・・・。これは、『情深い』などということ

ではなく、本性としての、反生命的なものに対する恐怖感 のなす反応であり、「死」という方向に対する無意識

の不安が、感情としてあらわれたスガタというべきであろう。(些細な行為にもアワの本性はつきまとう。)






  1. 2013/08/09(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<アワ>の性をつきつめる ③

 「アワ型人間」は、どんな場合にも、また誰をも、しんから 「憎ん」だり 「嫌っ」たり 「怨ん」だりすることが

出来ない。(「愛」する時にも 「敬」する時にもおそらく自分の感情より、相手の気持ちを考えてしまうだろう。

それは念いが薄いのではなく、むしろ 深すぎる為 に、失うことをおそれる のである。それ故、アワ型人間には

得恋のよろこびよりも失恋の悲しみの方が親和する・・・。)

 アワ性の強い者は、どんなひどい裏切りや逆恨みを受けても、どうして相手がそんな事をしたのか?何が相手を

そんなに怨ませたのか?もしや自分の言動に何か誤解させるものがあったのでは?・・・等という不審さの方に気が

行って、自分の怒る気持ちの方は、後回し になるものである。そしてその原因がわかった時は、相手に怒りを

返すよりも、そんなことをさせてしまった自分の未熟さ、情けなさに、臍をかむような、にがい思いをかみ締めるもの

である。






  1. 2013/08/08(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<アワ>の性をつきつめる ②

 「アワ型人間」の、執念深く、思い切りの悪い、「執着的気質」は、容易なことでは脱けられないから、

「サヌキ型人間」の、思い切りのよい気の変わり方には、しばしば唖然とさせられるものであるが、実はそれも、

<サヌキ>の特性が<イカツミ>(電気性)であり、<アワ>の特性が<マクミ>(磁気性)であるという関係を知れば
釈然とされるであろう。それ故、「サヌキ型人間」でも、心から 思うものには、(愛する人とか打ち込む仕事に対して

は)無意識のうちに、<アワ>の性の物理が働いて(執着的になって)いる筈である。






  1. 2013/08/07(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

<アワ>の性をつきつめる ①

 要するに「サヌキ性」も「アワ性」も、個体の生命を全うしようとして働く基本姿勢には変わりはないのだが、

その 方向性に正 ・ 反 があるということである。

 即ち、サヌキ性はつねに自己本位に マッスグに 出るのに対し、アワ性はつねに マイて出る のが本来性で 

ある。(それは、イカツミ(電気力)とマクミ(磁気力)との電気性の正・反の物理にしたがうものである。)

 それ故、何事に当たっても 判断の基準 が、「サヌキ型人間」は、自分中心 であり、トッサの間にも 自分に

都合がよいか悪いか?という線で大脳を働かせ
、『あとは野となれ』としらぬ顔でいられる。「アワ型人間」は、

いつでも、左、右を、みまわさずにいられない、という違いが、<マクミ>の本性から、受け継がれているのである。






  1. 2013/08/06(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

最も読むべき人は読まぬ ④

 そして、今、自分のアワ量はまだ不足でも、その事を自分の大脳を通して自分自身に教えるという 「逆序」 の

サトリを知り、その為のエネルギーを補給してかかれば(イヤシロスベ ・ アマウツシ ・ カムウツシ)次第に正 ・ 

反の振り幅が増し、その 波動量がある域に達した時、我々は、固有振動のアワ量を増すことが出来る、という

物理が分かったのである。

 拙い文章ながらも筆者は、読者の「アワ性」にすがってこの物理を述べ、読者自身が自身の内の「アワ性」「サヌキ

性」を認識されることを、先ず念願している。なぜなら、<サヌキ><アワ>の「性」のサトリは、<アマ><カム>と

よぶ賦存勢力のサトリに通じ、潜象物理入門の基礎 となるものだからである。






  1. 2013/08/05(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

最も読むべき人は読まぬ ③

 そしてその始末は、叩かれても奪われても、逃げ出すことも歪み切る事も出来ずに 苦労せずにいられぬ者が負

わされることになる
 のは必然である。それ故その任を引き受けざるを得ぬのは当然、サヌキ型人間ではない。

男でも女でも、何としても(物理として) アワ型人間の発憤にまつ しかないということである。

 我々の「アワ性」が、自己満足の域を脱して、真に相手の幸せに奉仕し、相手を救うことが出来るためには、真に

相手の性向(サヌキ型かアワ型か)と波動量を知ることなしにはあり得ない。そしてそれはしかし又、取りも直さず

自分自身の本性を真に知り、 自分の 生命を真に全うするスベ をマスターすることになるのである。






  1. 2013/08/04(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

最も読むべき人は読まぬ ②

 そしてまた、もともと忍耐強く、カゲの奉仕に徹するのが<アワ>の本性である。「無償の愛」の心の豊かさは、

現代世相の「精神貧乏」の空しさと、比ぶべくもないものである。しかしそれは、低次のサヌキ型人間には 求め得ぬ
もの
 なのである。

 禅の与奪の厳しい修行も、それに耐える潜在アワ量のある者にしか通用しない。アワ量の乏しいものを無理に

叩けば、逃げ出すか、歪み切ってしまうだけである。しかし突き落とされた崖を登り得ぬ「獅子の子」は捨てられるが

人間の子の扱いは難しい。獅子や猿の社会のレベルなら放置できることでも、人間の感受性(ヒューマニズム)は

それを許さぬからである。






  1. 2013/08/03(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

最も読むべき人は読まぬ ①

 聖書や経典でさえ、それを 最も読んで欲しい人々は読まない のが実情である。相似象会誌がいかに表現に

苦労しても、その種の人々に読まれることは無理であろう。とすれば、アワ型人間にヒビく文章さえ書いていればよ

い。その方がはるかにスッキリする・・・。しかしそれでは、聖書や経典でさえ犯したミス の轍をふむに過ぎない。

(聖書も経典類も アワ型人間向きの書 である。)

 自分の性向に合わぬ箇所も丹念に読み込むことの出来るのは、アワ型人間か、サヌキ型でもよほどアワ性の強い

者でなければ不可能である。「アワ型人間」が、自分の本性を知り、更に、自分とは異なる「サヌキ型人間」の成功を

知ることによって、人類のなお半数を占める「サヌキ型人間」に対する 心構えが、おのずから変わってくる

直接「サヌキ型人間」を動かすことは出来なくとも、少なくとも、「アワ型人間」の我が子の扱いを、マ違う事はなくなる

であろうし、自分の夫や妻への対応の仕方が変わってくれば、そもそも<アワ>の前駆なしに発生することの出来ぬ

「サヌキ性」のことである。 無意識の影響 を受けぬはずはない。






  1. 2013/08/02(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。