温故知新 ~サヌキとアワのサトリ~

相似象のサヌキとアワの紹介です。

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苦労する能力の無い者への対応 ①

 「正・反の振り幅」と言えば、実は、今にして思えば筆者は長い間、自分のアワ量を増すことの一方にのみ

ひたすら専念し、「苦労する能力」の無い者、即ち自分のアワ量を増すことの必要を 心から 感じない人々、

(ということは、振り幅を拡げる能力を欠き、苦労させると歪んでしまうから、別の扱いを必要とする人々)のことは、

殆ど念頭になかった。ところが、実際には、その種の人々に小突き回され、足を引っ張られて苦労量を増させられ、

要するに否応なしに鍛えられている間に、いつか、この種の人々の波動にも、ふさわしい対応が出来るようになって

きた。

 そして、身を粉にして親切を尽くしては裏切られ、逆恨みまで受けているうちに、『徳一ならば動いて吉ならざるは

なく、徳ニ三ならば動いて凶ならざるはなし』と言い切った古人の心が深く響いてきた。

 アワ量不足の親切や誠実をいかに尽くしても、自分の感情を移入して(自分の波動で他人を推量し)情に流さ

れることになり、結局、相手の人生をも過たせる結果を見るという 厳しい経験のおかげ である。






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  1. 2013/07/31(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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精神の遍歴も 正 ・ 反 の振り幅として ③

 そして、このようなタイプの者は、長年の日常的な誠実ないとなみ によって、たとえ家族の幸福度を増し、

仕事にも成功し、人間関係も円満になり、人々から喜ばれたとしても、サヌキ型人間のようにそれだけでは

満足してはいられぬムナシサが残る ということになるのである。


 しかし、それが何であるか?はわからずに、(無意識のうちに真の生命の安息、即ち「正 ・ 反の振り幅の重合」

を求めて)苦悩せずにいられない。そのようなタイプの者のみが、<カタカムナ>に出会い、そのサトリのスケールの

大きさに、はじめて開眼をみる であろう。






  1. 2013/07/30(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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精神の遍歴も 正 ・ 反 の振り幅として ②

 即ち一方の波動が、現実面に於ける 日々刻々の日常生活の衣・食・住のいとなみ や 人間関係の上

で 一々のことに自分をごまかさず、正直に、丹念に、「アタマ」も手足も働かせ続けずにいられぬ強い

「サヌキ性」を持つものである場合のみが、他の一方の波動に、一家一族の幸せをこえた真の充足を求める

深い「アワ性」の希求の念を持たずにいられなくさせるのである。

 というより真に「アワ性」の強い者は、現象面に於いてもその強いアワ性に支えられた「サヌキ性」を発生させずに

おかぬものなのであり、それはサヌキ型人間の現象アタマの「サヌキ性」(観念的な理論)とは本質的に次元の異な

るもの(<イ>と<ミ>の関係) である。






  1. 2013/07/29(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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精神の遍歴も 正 ・ 反 の振り幅として ①

 こうした人間の 精神の遍歴 も、「正・反の振り幅」 として みれば、「正」の振動の幅を最大限まで拡げ

得る者は、「反」の振り幅も動揺拡げうる筈であり、またそれを求めるのが「平衡感覚」、即ちマトモな「生命カン」

である、という物理を地で行ったものである。

 この場合の『一身一家の幸福以上のもの』を求めるということにしても、それが 大脳次元の観念的な主義主張

による「革命理論」にすぎぬものか、真に マトモな生命カン に基く「人間探求」のものであるかどうかの証拠は、

この「正 ・ 反の振り幅」で見れば明らかである。






  1. 2013/07/28(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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屈折した性格を整理する哲学も宗教も・・・

 これ程に 屈折した性格を整理する哲学も宗教も、筆者には求め得なかった。ただ、究極的に言えることは、

その揉みに揉んだ「アワ性」は、自分の一身、自分の一家、一族の安楽、幸福、(それは、誰にとっても大事な当面

の生活として、まじめに努力すべきことには違いないのだが)、それだけでは、(そのような 現象面の充足だけで

)どうしても 満足できぬもの があった、ということである。

 それが何であるか? を突き詰めぬうちは、何ものにも甘えられず、その心を何としてもごまかすことの出来ぬ

正直サ を、まるで ひそかな操のように 持ち続けていた。

 一体それは何であるか?わからぬモノを求めて、得られぬための、苦しい遍歴であった。

(この心は、現代の若者たちのジタバタ現象の果ての空しさにも通じるものであろう。)






  1. 2013/07/27(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ⑥

 筆者自身、自分の内の「アワ性」と「サヌキ性」をかえりみる時、いかにそれが組んずほぐれつ、出たり引っ込んだり

直進したり歪んだり、右に左にもみ合いながら、一歩一歩登りつめて来たことであろうか。今にして感慨無量である。

 おそらく幼少期、最初に生じた「サヌキ性」は直進的で、「アワ性」もまたそれに巻いてスナホな状態だったのであ

ろうが、やがてせっかくの「アワ性」が(量が少ないために)無下に抑えられ、(本来突進すべき「サヌキ性」が、

そこでは巻いて止める力の方にまわり)その為に「アワ性」は歪みながら必死に新しい<サヌキ>を発生し、それを

また振り切って、別の「サヌキ性」が進み、また巻き、という風に、一見どちらがどちらか、自分でも 弁別がつかぬ

程に織り成して
、つみ重ねてきたものである。






  1. 2013/07/26(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ⑤

 常識理性ではわからぬ事、現代人の概念にないこと、それでもそれを知りたい人には、

伝える言葉を見出さねばならない。この困難さと筆者の文の拙さを、読者のアワ性によって

どうか、乗り越えて頂きたい。

 自分の内にある「サヌキ性」「アワ性」の動向に、心から関心を持てる人でない限り、

<カタカムナ>のサトリには無縁の人である。






  1. 2013/07/25(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ④

 既に述べた如く、願わくは、会誌は、絵巻物を展げるように 繰り返し手に取り、廻り階段を登るように 丹念に、
自身の向上につれて読み込んで下さった時、筆者の述べたい心が読者の心に共振し、読者の方で、自分の大脳

智能の判断としてその内容を 整理し、分類して下さる ようになる。それによって<カタカムナ>のサトリ(潜象

物理)が、読者の<ミ>(直観力)として 定着する・・・。 そういう読み方をして頂けるように、という念いで書き込

んでいるつもりである。

 一見くどいようでも、同じことを何度も言っているようでも、全く同じということは無く、その時、その時、一字一句、

書かねばならぬ、という気持ちであった。(もし読む気はあるのに根気が続かず疲労を覚えたら、何よりもエネルギー

の補給(カムウツシ)をすることである。)






  1. 2013/07/24(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ③

 もとより自身の未熟さを幾重にもつつしみ反省しながら、しかし筆者は、その程度のことで離反してしまう人々の

「サヌキ性」に訴え、彼らの理解出来るような書き方、(科学的・哲学的な分類や手法)をしないように むしろつと

めている。
 なぜなら、もしそういう書き方の形式を取れば、彼らに、大脳二次波動の次元で「わかった」と思わせて

しまうからである。そしてアワ量の裏付けの無い「アタマ」に、「わかった気」を起こさせるような書き方は、どんな拙い
文章よりも許されない
 と思うからである。






  1. 2013/07/23(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ②

 本来は、<カタカムナ>のサトリの振り幅を以ってすれば、ゲーテ・釈迦の悟りをも 理学的に批判 出来ると同時

に、いかに低次の「サヌキ型」「アワ型」人間にも納得を得られぬはずは無いであるが、文章となると、話をする場合の
ように相手の 目の色や首の気配に応じてコトバ化する ということが出来ぬ為に、つまずきや疑問を解消させぬ

まま、一方的に進行してしまう。それ故、よほど「アワ性」の強い人が、「サヌキ型」でもそのカゲによほどアワ量の

養われた人でないと、筆者の真意を汲んでいただくことは難しいのである。

 「アワ性」の乏しい人々は、それが、自分の<カタカムナ>に対する共振波動の無さのためとは思いもよらず、

「ちんぷんかんぷん」どころか、さぞかし、筆者の書き方が悪いとか、くどいとかと言われるであろう。

と、先回りして思わずにいられない。






  1. 2013/07/22(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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会誌の文章がくどくなるわけ ①

 相似象学は、正・反の<フトマニ>のサトリに根拠をおくものであり、つねに 正・反の振り幅を踏まえて

述べねばならぬから、どうしても 文章がくどくなる。(最初一息に書いた時の原稿が、推敲につれて二倍三倍の

量になってしまい、その分だけ 反対のタイプの人々を 辟易させることになるかもしれない。しかしそれをおそれ

て、自分の好みにまかせた文章を書くことは筆者には許されない。)

 ということは、自分のタイプにあわぬところは筆者自身にさえ抵抗感がある。まして、それを嫌がらずに丹念に

読み続けて下さる為には、読む側にも、よほどの振り幅が無ければ不可能であろう。しかしそれをすることが、

自身の振り幅を拡げ、アワ量を増す鍛錬である ことを、お互いにわきまえたいものと念じている。

(会誌が読み難いといわれるのは、筆者の文章の未熟さの為ばかりではないことを、どうか分かって頂きたい。)



 

  1. 2013/07/21(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ⑥

 しらぬマに養われて行く「モノ」。 しかしそれは、ソレが何であるか? ということを、

物理として知らなければ、それ以上増やすことは凡人には出来ない。しかし「ソレ」が充たされない

限り、凡人でも、冨も名誉も、他のいかなる物を以ってしても、(現象の世間の役割や仕事をいかに

マトモに果たし得ても、) 心から安ずる事は出来ぬもの なのである。

 そのような人々にめぐり合うこと が、私共の願いである。なぜなら、そういう者の為に、

真に書かれたモノはかつてなかった と筆者は考へるからである。






  1. 2013/07/20(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ⑤

 自分でも無意識のうちに、何か、内心に絶えず求めてやまぬ 「モノ」があった、ということが、

<カタカムナ>に出会った時、真の驚き(心からの深い共振)を覚えた条件であったことを、

改めて思うのである。






  1. 2013/07/19(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ④

 アワ量の裏付けのない場合は、「愛」でさえも、「ただのいろけ」(エロス)になり、失えば

「嫉妬」になる。低次のサヌキ性の波動(歪んだ判断行為)を出すしかないからである。

 アイヌやドヤ街の人々と共に暮らし、あるいは孤児や障害児の為に挺身する人々の話を聞くと、

昔、この世で最も可哀想な人々の為に尽くそうとしたことを思い出す。しかし、もし、何年何十年、

そうした生き方をした後も、果たして初めと同じ 心の充足 を持ち続けていられたであろうか?

おそらく、自分にはこの道を行くしかないと全力を尽くしながら、なお、心のどこかで、それだけでは

充たされぬ「何か」(ゲーテの言う Sorge(どんな満足な状態のかげにもつきまとう 底なしの不安) )

を残存させたまま、それが何であるか? を突き止め得ずに死んでゆくしかなかったであろう。






  1. 2013/07/18(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ③

 しかし私共は、その程度のカタカムナの遺産が、今更西欧人から少しばかり注目されて

いい気になるどころではない。そもそもその遺産とはなんだったのか?

せっかくの遺産を、どうしたら今、新しく活用できるか? それが何より問題である。

 人間のあらゆる感情や行為のいとなみの中から、知らず知らず養われて行く「モノ」、

そのことに敏感な感受性を持ち易い者と、無きに等しい者とが、タイプとして存在する

(アワ型・サヌキ型)ということを、私共はわきまえねばならぬのである。






  1. 2013/07/17(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ②

 今日、先進諸国の企業の崩壊状況に対し、大きく注目されてきた 日本の労働者の優秀性

という問題も、実は、劣化し裏目に出たとは言えども、『腐っても鯛』 の <カタカムナ> の伝統が、

日本の庶民にはまだ残っていたという証明であろう。彼らは近代化自動化の進んだ工場で、

あるいは零細な下請け仕事で働きながら、それを、つまらぬものにしてしまわず、工夫努力をこらす精神

持っている。他民族なら、よほど優秀な人で無い限り発揮できぬ 向上性、究極性、融通性等という

生命的な発生能力 をカタカムナの後裔たちは、一般庶民の中にも、今なお何となく伝え持っている者が、

数多く存在しているということである。






  1. 2013/07/16(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「道」を求めずにいられなくなる日本人の心の奥に潜むモノ ①

 単純な繰り返し仕事を大事にいとなむ心、どんなものにも 向上性、究極性 を期して

工夫を凝らさずにいられぬ心、 禅や和歌、剣道や茶道から、大衆のスポーツ、娯楽、

パチンコに至るまで、何となく 「道」を求めずにいられない・・・。

 その「心」の奥に潜むモノこそ、<カタカムナ>の上古代以来、カタカムナのコトバを使う

日本人に、日常の家庭生活の中で、しらぬマに養われていたモノ であった。

(他民族にもそういう心を持つ人はあるに違いないが彼らの心の奥の無意識領域には、

それを養うサトリが無かった。)






  1. 2013/07/15(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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<イマタチ>のサトリ ④

 私共が問題とするのは、野口英世やゲーテのように世間的に成功するか否か?ではない。

何を以って成功とし失敗と見るか? その基準を、私共は、世間的な有名度や勲章の類に

置くわけには行かない。

 どうすれば「潜在アワ量」を持つ者のアワ性を養い育て鍛えて、「苦労する能力」を、

マットウに発揮させることが出来るか?


 私共が、日常の丹念な繰り返し仕事 (食物の調理、洗濯、裁縫、掃除、あるいは銘々の身じまい、

又は農作業など) によって、もたらされるモノ(養われるモノ)の意味を正当に知って、それを微波動

鍛錬の実習にとりあげているのは、このサトリを得た故である。






  1. 2013/07/14(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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<イマタチ>のサトリ ③

 殆ど無意識のうちに、取捨の判断を刻々にしてくれている我々のうちなるモノ、そのモノが知らぬマに

養われていれば「苦労する能力」 が発揮される。(実際には、マトモに養われずに終る者が多いのだが)

もし養われて行けば、どんな境遇にあっても、例えば野口英世のように貧しくても、あるいはまた釈迦・ゲーテ

のように裕福でも、銘々に具わる 潜在アワ量の充たされるだけの苦労 をせずにいられぬものである。






  1. 2013/07/13(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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<イマタチ>のサトリ ②

 我々の生命は、我々自身が意識するとせぬとに関わらず、実に、一刻一刻、外界環境の刺激を

(寒さ暑さにつけ、快・不快につけ、)「受けるか」「受けないか」の、選択の連続 によって、生か死か?

健康か病気か?吉か凶か?の 方向付けが為されて いるのである。(実際には、我々はよほどの大病で、

一息一息を苦しんだ経験でもない限り、意識に上がることなく、流れ過ぎているものであるが・・・。カタカムナ

人は、その潜象過渡の物理を感受して、<イマタチ> のサトリを示している。)






  1. 2013/07/12(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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<イマタチ>のサトリ ①

 未分化な間は、「受けるか」「受けないか」 という単純な「感受」と「判断」(取捨)だけであったものが、

人間の場合は、さまざまな条件が加わり、いかにも複雑多岐に分化してしまった。しかし我々が生存を保って

いられるのは、その奥にあって、依然として、一刻一刻、これを 「受けるか」「受けないか」 の取捨の判断を、

無意識のうちに行っていてくれるモノ があるからである。






  1. 2013/07/11(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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貧しさ苦しさの中で何が養われたのか? ③

 あるいはまた、政治も教育も、命令者におとなしく従わせることが大事なのではない。


 従うべきか?

 従えば危険か?


 を カンじとる知性 を養わせた上で、堂々と従わせるだけの「モノ」を持つこと が、本スジの

先決問題である。

(この「モノ」に一々(注釈)をつけなくても、ここまで読み進められた読者にはもう明らかであろう。)






  1. 2013/07/10(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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貧しさ苦しさの中で何が養われたのか? ②

 また、<カタカムナ>の原住民と天孫族の関係も、『天皇制を支持するか?否か?』で片付く

ことではない。また、原住民の側に『華々しい革命や抵抗運動があったか否か?』が重要なのでもない。

原住民が『長いものには巻かれ』ながら、事実上、天孫族を同化してしまい、民族の命脈を保って

来たそのカゲに
、あるいはアイヌ、サンカ、エタ等とよばれる人々が今日まで、甚だしい差別の中に

生存を保って来たそのカゲに、生きつづけていた「モノ」は何であったか?


これを突き止めることが根本問題である。






  1. 2013/07/09(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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貧しさ苦しさの中で何が養われたのか? ①

 今にして思えば、原始の人々や貧しい家の子らが貧しさ乏しさの為に、

手足もアタマも苦労させられねばならなかったことによって、しらぬマに養われていたモノ

それが何であったかを突き止めぬ限り、この解明は不可能だったのである。






  1. 2013/07/08(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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知らぬマに養われていたモノをつきとめる ③

 また、「原始の心」とか、「原点に帰れ」等と叫ぶ人々にしても、原始の人々の生活のどこに

どのようなものがあって、我々はその何を取り戻せばよいのか?その根拠をハッキリとつきとめていた

人が一体、あったであろうか・・・?

 (叫ぶ人も聞く人も何となくわかるものがあり、お互いにそれが精一杯であれば、今日まで咎められる

ことはなかったが、無責任な話であった。)






  1. 2013/07/07(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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知らぬマに養われていたモノをつきとめる ②

 貧しく乏しかった人々の社会が平和だったからといって、『人間の幸福の根拠は貧しく乏しいことでなければ

ならぬ』などといったら笑われるであろう。しかし実は それに近い発想 が今なおまかり通っている。

 例えば 『貧しい家から孝子や偉人が出、豊かな家の子が非行に走る』という 実例を教訓に 持ち出す

場合がそれである。そこでは一人の野口英世や石川啄木の出た陰に、同じく貧しさ乏しさの故に、むなしく

不遇に死んだ者のことがミスされている。 同じ貧しく乏しい場 から、成功する者と失敗する者が出る、

その原因を 真に突き止めた哲学 が、しかし 有史以来あったであろうか?






  1. 2013/07/06(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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知らぬマに養われていたモノをつきとめる ①

 知らぬマに養われていた「モノ」 をつきとめること(何が養われるのか?養われるべきなのか?)

 人間の男 ・ 女の性別も、妊娠初期にはどちらにでも変われる常態であるという。


○ 受け入れるか? (受け入れてよいとカンじるか?)

○ 受け入れないか? (受け入れては危険だということをカンづくか?)


の 正反、取捨の行為 がなされているだけのことである。そして、「男性」か「女性」かに分かれて生まれ、

四相の別をもつところまでは、生物本能的な波動現象 のみであるが、人間は、大脳二次波動の発達

と共に、問題は俄かに複雑化し、混迷を来たす。









  1. 2013/07/05(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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自己反省の為の最も能率のよいスベ ②

 人間らしく生きる イトナミのスベテ にわたって スベ(技術方法)があり、その刻一刻の

方向性が「アワ量を養う」という至上目的に統合されて、直観力の向上をみる という関係の

ものとして研究され、実践に努めている。

 誰でも赤ん坊の頃、まだ自分の神経細胞の結合にないものに出会った時、マジマジと目をみはり

全身で、それが何であるか?を知ろうとした、あの心を、私共は死ぬまで持ち続ける。それ故、

少しでも、よりよいスベを見出して行く <アラカミチ> の発見の喜びは日々つきない のである。






  1. 2013/07/04(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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自己反省の為の最も能率のよいスベ ①

 <サヌキ ・ アワ>のサトリが、人間の性格を知る為の最もよい分類のしかたであり、自己反省の為の

最も能率のよいスベ
 となる、という所以は、それが極めて 単純明快であるから 誰でも(自分自身に

正直になりさえすれば、) 日々刻々、自分の判断行為をチェック して、


『ア、今日は<サヌキ>が出た』 とか、

『あれは<アワ>が足りなかった』 とか、

『ア、今、彼の<サヌキ>がカチンと来ているな』 とか、又、

『今日の彼はいつになく<アワ>的だったな』 とか、

『今日こそ彼女の<サヌキ>の本性を見届けた』


等々と、刹那に、微波動的に、反省したり整理したりできるからである。そして、そうしている内に何となく

アワ量を増す方向へ自分を育てて行く習慣 が ミにつく ことになる故である。






  1. 2013/07/03(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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苦労する能力のある者と無い者への対策

 苦労する能力のある者 には、順序 ・ 逆序のサトリを認識 させ、その為の

エネルギーの補給法を実習 させる必要を私共が痛感するのは、このような事実を物理

としてつきとめたからである。

 なお又、苦労する能力の無い者、即ち自発的に反省や鍛錬をする気のない人々の為の

対策としては、従来の宗教や習俗が自然発生的に果してきた 役割を見直し、例えばどの

民族でも行って来た(今なお地方には残存する) お祭りや年中行事、あるいは定期的な集会として

毎週、あるいは毎月(よりが戻らぬうちに)教会や寺社や青年宿等に人々を集め、歌、踊り、芝居、

飲食等を伴う 楽しみながらの社交や教養を兼ねた場で説教をし、また、銘々には告白をさせる

という 習慣の知恵 を、現代の子供たちや多数者のための アラカミチ として改めて工夫し、

定着させねばならぬことを、これもまた、痛感している。今日まではその為の根拠となる真の

サトリ(潜象物理)がなかったのである。(我々を「天皇」「アラーの神」でしばることはもはやできない。)






  1. 2013/07/02(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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