温故知新 ~サヌキとアワのサトリ~

相似象のサヌキとアワの紹介です。

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アワ量と固有振動 ⑤

しかし、現代人の大多数が同等の状態である為に、その方が自然であるかのごとくに見られ、

「自然サ」などと言い出す者は異様に思われ、または無視されるのである。

「自然サ」が多いということは、天然自然のいとなみの正・反配偶のバランスの相似象に近づくということである。

我々の現実の行動は、その時その時のアワ量なりの<カムウツシ>により、

「サヌキ性」として発生するものである。

これらは皆、潜象過渡の過程(無意識領域)での作用であり、(アワ性の働く過程は意識には上がらない。)

「サヌキ性」が大脳次元の細胞を働かすところまで来なければ、我々の意識にはならぬのである。

「人間の意志や意識ははかないものだ」というのは、このような潜象物理によるのである。

(これは、釈迦五蘊観の第一過程(rupa)よりも以前を示すものである。)




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  1. 2012/10/31(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量と固有振動 ④

といっても、人間の持ちうる波動は、天然自然の巨大な波動量から見ればまことに微少なものであるが、

鳥や虫たちはさらに微少である。微少になれば「自然サ」が少なくなるというものではない

大事なことは微少なりに、「自然サ」を保っているということなのである。

聖書や論語・教典などで、しばしば無智純朴な者がほめられるのも、昔話の『おじいさんとおばあさんが・・・・』

の姿が微笑ましいのも、人間にとって理智や才能より「自然サ」が大事だという教えである。

しかし現代人は大脳次元の歪んだ二次波動のみ増え、「自然サ量」は、犬や猿にも劣る有様である。

この理由は、能力の低い単純な者が、それなりのバランス(自然サ)をもつことは、むしろ容易であるが、

潜在能力のある複雑な者ほど、それにふさわしい平衡的発達を遂げることは難しくなるからである。

まして現代人は、現象に対する意識(大脳智能)が爬行的に発達し、潜象感覚(感受性)の

平衡的鍛錬を忘れた為に、全く「自然サ」を失っている。




  1. 2012/10/30(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量と固有振動 ③

その<サ>の差によって我々のアワ量が発生する。その際の、我々の側にあって、共振しているものが

我々の<アマナ>の発している固有振動(または高調波)なのである。

それ故、「自然サ量が大きい」ということは、その人の潜在アワ量が多くて、

何に対しても、いつでもどこでも、豊かなアワ量を以って応対することが出来る、ということである。

適切な例をトッサにあげられるのも、巧妙な表現がズバリと出せるのも、また、「イキなはからい」が出来るのも

しかもそれが単なる智的な才能にとどまらずに、常に人々の幸福度を増す方向へ発揮できる者は、

アワ量が豊かで、自然サ量が多いということである。




  1. 2012/10/29(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量と固有振動 ②

したがって、その人の最大アワ量は、自分の固有振動数(または高調波)の一パイまで出せるが、

同一人がいつでも同じように最大アワ量を出しているわけではない

保有量としては最大アワ量まで出せる振動数を持っていても、トキとトコロにより、その場その場の

自身の条件(体調・気分・活性度)や、相手の状態、前後の行きがかり、

等に応じて異なる(サのある)ものである。

<サ>というのは、前述の如く上古代語では<カタチ>をいうのであり、

楢崎皐月は「自然サ」という表現でそれをとらえているが、要するに、潜象から現象が発生し、

潜象は、刻々に現象に関わって、現象を存在させている。

その潜象と現象が重合する目に見えぬ堺(現象のなかにある潜象の出先機関のような<アマナ>が、

潜象の<カムウツシ><アマウツシ>を受ける場)が、どのくらいの<サ>であるか?ということである。




  1. 2012/10/28(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量と固有振動 ①

ここで少々、固有振動とアワ量との関係に言及しておく。

生物の「固有振動」は、死ぬまで一応変わらないものであるが、人間は、「逆序」のサトリ

が定着的となり、「アマナ転換」(ゲーテの言う「ベンドング」富永老師の言う「正覚」私共の言う「眠れる脳」)

に至れば、増幅的に変化しうる。しかしその際も、固有振動が一変するのではなく、

増幅的な高調波となるものである。

アワ量」とは、その人の固有振動に基づいてその場その場に発生する「カムウツシ量」である。

「固有振動」は、生涯(どこにいても、何をしても、また肥ろうが痩せようが、元気でも病気でも)

変わらぬが、「アワ量」は、一刻一刻、その場その場で変わっている。




  1. 2012/10/27(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「アワ量」と<サ>の思念 ⑥

しかしながら、サヌキ量を増やすことによって(大脳智能を鍛錬して)、アワ保有量を増させることは

全く不可能か?と言えば、そうも言い切れない。

自然界でも水は高きから低きへと流れるのが順当であるが、時には逆の現象もあり得る。

しかしそれには必ず相応のエネルギーが必要である。人間の精神作用に於いても

もし、<ミ>から<イ>へ(アワからサヌキへ)進行すべき天然の「順序」を、<イ>から<ミ>へ

(大脳智能の鍛錬によって感受性を教える方向へ)逆行させるための「物理」(逆序)

を知り、そのために必要なエネルギーの補給法を知ってマトモに努力すれば、人間という種に許容されている

「アワ量」いっぱいまでは、現代人に於いても獲得することが出来ないはずはない。

我々の意志や意識というものは、まことにはかないものであるが、しかし人間の特徴は

ひとえにその大脳智能の発達にある。そのはかない大脳機能を唯一の頼りとして

「逆序」のサトリを全うする方向へ、何とかして鍛錬し抜く以外に人類文明の軌道を修正する

アラカミチを見出すスベはない、というのが私共の最終的な結論である。





  1. 2012/10/26(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「アワ量」と<サ>の思念 ⑤

したがって、「アワ性」と「サヌキ性」は、正・反に働く力であるが、「アワ量」と「サヌキ量」とは、

対等に比べられるものではない。「サヌキ量」ということをもし言うとすれば、

それは「アワ量」によって大脳智能が働く次元での、二次的な波動量であって、

実は、「アワ量」の内に包含されているものである。それ故もっぱら、人間次元でしか通用せず、

いかにそれを積んでも(サヌキ量を増しても、ということは、前述の、趣味や教養の数をいかに増しても

という群小地震とマグニチュードの例の如く)、その人のミの本質量(アワ量や固有振動数)を

増すことにはほとんど影響が無いものである。(したがってもし本人が大脳機能を失ったり

欠損したりすれば(脳出血などで)、喪失するものである。)

また、随分高度の智識(大脳二次波動)をもちながら、人格的には低次元にとどまる者が

しばしば存在するのも、この物理(アワ量不足)の故である。




  1. 2012/10/25(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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時間の流れから見た波形の展開図

いま、これらの キタ→ミナミ、ニシ→ヒカシの動的変化の波動を、ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ム、ナ、ヤ、コ、ト
ア、ウの時間の流れを横軸に取って、現象、潜象の波を描くと次のような図になる。

時間の流れ


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  1. 2012/10/24(水) 10:57:29|
  2. 単音思念
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「アワ量」と<サ>の思念 ④

現象界にあってもそれは、あくまで目に見えぬ潜態のままであり、<サヌキ>を発生する力である。

<サヌキ>とは、その<アワ>によってアマ(現象界)へ出た力であり、人間の場合、その本性は

大脳智能の働きとして発現され、その人の「サヌキ性」の強さや程度は、その人の持つ

<アワ>量によって定められるという関係である。

(<アワ><サヌキ>という上古代語も、図象符にしてみれば、読者にもその心がヒビクであろう。

前述の如く、<アワ>という図象符は『現象界に於ける<カム>のチカラ』という思念を示しており

<サヌキ>は『現象界に発生して、ヤ(極限・飽和・安定・崩壊)まで進行する力』を意味している。)

(人間のアワ量は元素の原子量に当たり、サヌキ量は原子内の電子量に当たるであろう。)




  1. 2012/10/24(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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トキ、トコロ、キタ、ミナミ、ニシ、ヒカシの概念

標題の言葉を漢字に当てて、時、所、北、南、西、東と現代風に理解してしまっては
カタカムナの潜象物理を理解することは不可能となる。



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  1. 2012/10/23(火) 12:38:04|
  2. 単音思念
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「アワ量」と<サ>の思念 ③

それなら、なぜそれが<アワ>によって計られる量であるか?ということは、潜象物理の最も

根本原理であるから、文献本文を熟読吟味した上で、改めて読み返して頂かなければ

ここで充分な理解を得る説明をすることは無理であるが、(<サヌキ><アワ>の正当な説明は、

声音図象に基かねば不可能であるから、ここでは読者の「カン」に頼っておくしかないのであるが)

要するにアワ量とは『現象の中に存在する潜象の量』であり、『現象物の中にあって、

それを生存させているモノの量』即ち、それが我々の<イノチ>の量であり、

現象と潜象の堺にある「<サカのヒ(アマナ)>の量ということになる。

そしてそれは、<カム>の力が刻々にその物の<アマナ>に関わる量であり、その本質は<カム>である。

それを現象界に於いては、カタカムナ人は<アワ>とよんだのである。




  1. 2012/10/23(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「アワ量」と<サ>の思念 ②

しかもそれは、現象的な絶対単位を基準にした数値(メートル法など)によって表せるような

ものではない。高サ低サ重サ等は、センチやグラム等の単位で数値を出し、現象物質として

計量することも出来るが、それは、そのものの「本質の量」(即ち<サ>)を計っているのではない。

基準のとり方で数値が変わるものは(例えば地球上で1キロでも月では1/6になるとか、

同じ人でも、疲れている時は重く感じる のに、数値は同じ1キロである等というのでは)

その数値は、(キロとかセンチとかは、)上古代語の<サ>の量を示すものではない、ということである。





  1. 2012/10/22(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「カ」の概念の把握

次にカタカムナ単音の解説を行うに当たり、基本的な命題として把握していなければならない点は
「カ」(図象文字では カ )の概念である。

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  1. 2012/10/21(日) 22:33:38|
  2. 単音思念
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「アワ量」と<サ>の思念 ①

私共が「アワ量」という時の「量」とは、所詮数値で示される科学的な現象量のことではない。

前述の如く、<サ>という上古代語の思念で表されるモノの量、即ちその物の本質の量

(上古代語では<カタチサ>のことである。)

日本語の高サ、低サ、重サ、女らしサ等という時の、「サ」という思念によって、我々には、

その「サ」を(そのものの本質の違いを)何となく「量」として感じているものがある。

そのように「自然」ということにも「自然サ」という量によって、感じられるものがなければ

「自然」ではないわけである。しかしそれには、その本質がわかっていなければ計れない。





  1. 2012/10/21(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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人間の意志の次元とアワ量 ④

このようなことは古今東西、心ある者には良く知られていたし、凡人にも何となくわかっていたことである。

たとえば、智能も才能も無く、何の目的も持たず、黙々と働き続けてきた無名の貧しい人々が、

多くの孫たちに囲まれ、豊かな長寿に恵まれるかと思えば、一生懸命修業を積み、善意を以って人の為に尽くし

あるいはまた、精進・玄米正食を守るような者が案外不遇のうちに早く死に、一方では好き放題の

悪徳・邪食の者が病気もせずに大いに繁栄している。(憎まれっ子世にはばかる)

現実に存在する事ながら、神秘思想(祖先の霊)でも持ち込まぬ限り説明できぬこうした

現象世界の様々な矛盾は、今日まで、哲学でも科学でも宗教でも、スッキリと解明されることは無かった。

(それは後代人が、天然のいとなみ(順序)を知る潜象物理(<カタカムナ>のサトリ)を失い

逆序(人間の大脳の教え方)のスベを忘れてしまった故に他ならなかった。)






  1. 2012/10/20(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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人間の意志の次元とアワ量 ③

それらは、見掛けは変わっても、本質を変えることにはならぬものである。

もしこれらのどれか一つでも、真剣に突き詰めていけば、かなりの波動量を増すことは出来るだろう。

しかしながら、それは丁度、小さな群小地震が10や20集っても、マグニチュードの度を上げる力にはならぬ

ようなものである。(それ故、真の道を求める者は、そうしたものを過大評価したり

道草したりすることはゆるされない。)

要するに人間の「アタマ」の意志や意識とよばれる次元のスケールは、天然のいとなみ(順序)

の力の巨大さの前では、孫悟空と釈迦の掌のたとえ話のようなはかなさなのである。

しかし、またそのお陰で、無意識のうちに我々は守られているのである。

実は、宗教で神の加護とか仏の慈悲を説くのが、それに当たるのであるが、

それは、人間のアタマが何を考えていても、(「目的」のためにひたすら捨て身で突っ走っていても)、

その意志の奥にある無意識領域の「アワ性」によって、極力、生命は保たれて行くという物理を、

神秘的にとらえているのである。また、いかに極悪非道の人間と言えども、天然の順序を覆す

ようなことは決してできるものではないから、案外、バチも当たらず『免れて恥なし』

ということが多いものである。




  1. 2012/10/19(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「図象符にする」ことの意味 ~小円が四つのもの~

小円が四つのもの

ツ  ネ



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  1. 2012/10/18(木) 23:59:21|
  2. 単音思念
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人間の意志の次元とアワ量 ②

現代の甚だしい競争社会の風潮にのせられ、人の言葉は疑ってかかり、誰かのために悪しかれと思い

相手を陥れることに智能を駆使する方向へ、判断行為を度重ねて繰り返すことは、自分で潜在能力(アワ性)

を封鎖し、人間性を歪ませる練習をしているようなものである。

現象面では一時的に成功したかに見えても、人間としてのアワ量は減少し、固有振動は一生変化しない。

たとえ、様々なものに手を出していかにも経験豊富に見えても、「精神貧乏」は充たされず

実は、同じ面での横スベリ現象に過ぎないのである。

(たとえば、音楽・映画・芝居・骨董・花作り・野球・ジョギング・ゴルフ・マージャン・碁・将棋・・・・・・)




  1. 2012/10/18(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「図象符にする」ことの意味 ~小円が二つのもの~

小円の位置が


第1位相「ヒ」から第5位相「イ」 

 ハ  ホ  ル(潜象界から現象界へ発生する思念)




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  1. 2012/10/17(水) 23:59:12|
  2. 単音思念
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人間の意志の次元とアワ量 ①

言うまでもない事であるが、前述のようなアワ量を増やす方向へ関心を持ち続ける者は、

(固有振動を増幅的に変化しうる者は)実は極めて少数であって、大多数の者は、子供の時のアワ量が

増すどころか、大人になるにつれて減少する一方である。(増えているのは「サヌキ性」によって

発生される大脳二次波動の末端現象である。)

他人の不幸を悼むことは出来ても、他人の幸福を心から喜ぶことの出来る者は少ない。

現象の物質に価値をおく教育に汚染されてしまった人々の中で、他人の為に心から良かれと思う気持

アワ心)を持ち続けることは至難である。

今の世に、そんなお人よしをしていたら自分がやられてしまう、という現実の不安から「サヌキ性」

が発達するのは必然の現象であるが、皆が皆その程度の「サヌキ性」で右往左往していれば、

弱肉強食の果ての共倒れ(絶滅)に至るしかない。




  1. 2012/10/17(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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芸術家たちとアワ量 ②

ここでも、学歴や免状、肩書き、勲章等を獲得して満足できる者は「サヌキ型」人間である。

そういうものより、本当の実力の方が大事だ等と思うのは「アワ性」の強い者なのである。

こうした風潮の中でも、僅かに芸術家や職人たちの間では、仕事の上で、やむにやまれず

アワ性を鍛えるという本質的なスベが、今日まで生きつづけ、またそれが評価を受けている。

しかし、彼らの「アワ性」は、ひたすら仕事の上で強い「サヌキ性」を発揮するに止まり、

自分自身の生命を守る方は、無知に等しい者が多かった。(こうやの白袴)

彼らがまだ若くして死ねば、世人は無責任に称賛するが、本人としては必ず、

もっと生きて、もっともっと真の作品を生み出したかったに違いない。

こうした悲劇が後を絶たぬのも、自分の内なる<サヌキ・アワ>の「性」を

認識するスベのなかった悲しさである。




  1. 2012/10/16(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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芸術家たちとアワ量 ①

昔から現代まで、この心を持ち続けずにいられなかったのは、芸術家たちであった。

一枚一枚の花びらや、葉を見つめ、描き、土をこね、木を彫り、銅を溶かし等とする丹念な手仕事を、

日々、向上的に繰り返す間におのずから養われていくものが、技術を鍛え、それがまた、

芸術の心を育てる。

我々は、この過程を、人間の精神の鍛錬向上の為にも、マットウに活用すべきだったのである。

(カタカムナ人は、それを実行していたのだ。)

しかし、そんなことは、面倒くさい無駄なことのように思い違いをした後代人は、

自分で小麦を育て、うどんを打つよりも、インスタント食品を買う方が文化的だと思い、

自分の足で歩くより車を飛ばす方が偉そうに見える。あまつさえ精神面のことまで、自分のアタマで、

自分のありたけの力で、新しい思想を生み出そうとはせず、

他人の思想を借りて理論だけで分かる気になるくせをつけてしまった。




  1. 2012/10/15(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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原始生活とアワ量 ②

その過程を省略することによって獲得した時間で、金銭や娯楽や教養を得て、満足していられる者は、

「サヌキ型」人間である。「アワ性」の強い者が、そのようなものをいくら積んでも、どうしても

空しさを感じてしまうのは、それらには、昔の人が、小麦からうどんやパンを作り出す過程で

知らず知らず、自分の内に蓄えていったものが無いからである。(金銭や娯楽や教養等は、

人間次元でこそ通用するが、人間以外の、動物にも花にも鳥にも・・・ 通じる波動ではない。)

このような人間次元の二次現象にうんざりした人々が、自給自足の原初の生活に心惹かれるのは、

生物普遍の生命の波動、即ち、自分の内にある「アワ性」の共振するものを、

求めずにいられぬ心を持つゆえである。




  1. 2012/10/14(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「図象符にする」ことの意味 ~小円が一つのもの~

小円の位置が

第1位相のもの・・・・・・ヒ  カ  ア  レ

静中に動あり。 持して放たざる状態。





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  1. 2012/10/13(土) 00:20:32|
  2. 単音思念
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原始生活とアワ量 ①

昔は、生きるためには自分で作り出さねばならなかった。うどんを食べる為には、まず小麦から育て、

粉にひき、自分でこね・・・。皆がそれを当たり前としていた時代には、そうした単純な行為を丹念に繰り返す事

によって、皆の中に、おのずからアワ量(自然サ量)が養われていた。なぜならそうした行為は、

いちいち多くのアワ性を必要とするからである。

(古来どの民族でも、そういう仕事が何と無く女の役割とされていたのは、『やせても枯れても』女は男より

 アワ性が多いものだということが何となく分かるからであろう。)

今は、うどんを食べる為に、小麦粉から打つ人さえ稀で、自分でだしをとるどころか、丼を洗う手間

もいらぬインスタント食品を買って済ます人が多くなった。

昔の人は、自分たちの食べるものを用意する為に、多くの時間と労力を費やした。

食物をただ栄養補給とか、食欲のためという目的でしか考えない人々は、人間が小麦から

うどんを作るまでの間に、自分の内に育つもののあることを、全く無視している。

ただ、「面倒くさい」とか、「時間が無駄」とか考える人々は果たして、昔の人が、

その道程で得ていた以上のものを持っているのであろうか。




  1. 2012/10/13(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量を増すこと ④

昔から「写経」等ということが行われ、また職人や芸の仕事をマスターする為には、

師の許に住み込んで修業する習わしであったのも、ミを以って、師と相似の波動量を獲得するための

適切なスベだったのである。アタマの先の操作では、アワ量は増すものではないということは、

何となく衆知の事実であった。

私共の実験は、昔から、そして今日でも、人々が無意識の裡に行っていた、

このような生命のいとなみを最も能率良く、正当な目的と手段によって発揮させようとするものである。

いかに本人の主観としては、善意や誠意を以って忠実につくしているつもりでも、その保有する

アワ量が実際に足りなければ、師の教えを受け継ぐことも伝えることも出来ぬばかりか

冒涜、不信、背信、裏切りの行為を犯してしまうことになる。この厳しい現実を

私共は、あくまでも人情に流されず、冷静に認めるところから出発したのである。




  1. 2012/10/12(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量を増すこと ③

かつて身も世も無い程に感じた悲しみも不安も怨みも、キレイに「水に流す」ことが出来るのも

ひとえに「アワ量」が増すことによってである。そしてこのように、恰も成長するにつれ身に合わなくなった

衣服が自然に脱ぎ捨てられるように、自分の「アワ量」が増すことによって

おのずから過去が成算されて、増幅的にミについた波動量は、

大脳次元で染め付けられた二次波動とは本質的に異なるものであり、

たとえ脳軟化症になっても欠落しない筈のものである。




  1. 2012/10/11(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量を増すこと ②

そして、一度や二度でなく、そのような波動が度重なり、遂にある量に達すれば、

それは、高調波的な波動として定着し、その人のアワ保有量を増し、固有振動が、少し変わることになる。


(ひとたび固有振動が増幅的に高調すれば、それ以前の感情や思想は、新たに獲得した波動量のもとに

 吸収されてしまう。我々の「心」は、このようにして少しずつ向上的に成長して行き

 新しく獲得されたアワ量によって、新しい生命活動がアラタに始まるものである。

 「心から良かれと思う気持」が、なぜアワ量を増すスベに通じるか?それは、その心の発動の状態が
 
 生命を保とうとする生物普遍の<アワ>の本性に根ざす物理的共振現象即ち
 
 「天然態」というべきものだからである。)




  1. 2012/10/10(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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アワ量を増すこと ①

しかしながらまた、前述の如く、<カミ>を感じたり、アワ量を増したりすることは、

今日の我々現代人にも、決して不可能なことなのではない。というより、日常誰でも生きている限り、

<アマウツシ><カムウツシ>を受けること無しには在り得ないものであるから、

その気になりさえすれば誰にでも出来ることである。

例えば、誰かのために心から良かれと思う時、(相手はそれを全く気付かなくとも)

また、自然の花や虫や鳥などの真剣な生命の営みに、

心からのおどろきや、やさしい眼を向ける時、(花たちは黙っていても)

あるいはまた、心から敬慕する、生命の恩人とも思う人の文章を

一字一句、吟味しつつ書き写す、というような行為をしている時・・・、

その人の心には、相手の人とも、また、花や虫たちとも共通の、天然の波動が、

音響以上の大きな<カム>の<ヒビキ>として、ナリ響いているのである。

(それが、音波や電磁波以上の潜象の<ヒビキ>であるために、科学的に捉えられぬだけである。)




  1. 2012/10/09(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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「図象符にする」ことの意味 ~小円の無いもの~

サ
ト
リ
ワ
キ
タ
ヰ









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  1. 2012/10/08(月) 22:13:19|
  2. 単音思念
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