温故知新 ~サヌキとアワのサトリ~

相似象のサヌキとアワの紹介です。

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相似象?サヌキアワって?

※この記事は常にTOPに来ます。


相似象とは、カタカムナの解説です。

カタカムナとは今から数万年~十万年以上前の時代から伝えられてきた
謎の古文書です。(しかしこの真実を証明できる物証は残念ながらありません。)

楢崎皐月という天才科学者が1949年にカタカムナ文字を入手し、
その解読に成功しました。

サヌキ・アワという上古代語はカタカムナ文献に明示されている
「潜象物理用語」です。
そして、それは私達が<カタカムナ>のサトリを受用して、宇宙のあらゆる
万物万象を「相似象によって分類する際の最も基本の原型」です。
そしてこの「性」のサトリは、現実の人間の様々な性格を分類する際の「根拠」となるものです。


カタカムナでは

我々の住む 「現象界<サヌキ>(物質世界)」

その背後に現象界を生み出している「潜象界<アワ>(見えない世界)」

が存在するといっています。

それは人の体でも同様で、手や足は見えますが心は見えません。
でも確かにあります。
気持ちを声に出したり文字にして書いたり出来ますがあくまで現象です。

このカタカムナの中のサヌキとアワという潜象物理用語について(専ら心を中心に)
少しずつ皆様に紹介をしていきつつ最近始めた自分も共に勉強していきたいと思っています。


相似象会誌の買えるお店
ナワ・プラサード




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  1. 2014/12/31(水) 23:59:59|
  2. サヌキ・アワ
  3. | トラックバック:0

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 71

 この <サヌキ・アワ> についての小誌を、筆者が、読者に捧げる 「切実な」 そして 「純粋のおくりもの」で

あるというのは、これが、もろもろのサヌキ型人間の中に六十年、文字通り 揉まれ踏まれ、スベってコロんで、

まさに 一命を失うキワに至って、ようやく知り得た アワ型人間のサトリだった からである。


 筆者ほどのバカは尽くさぬまでも、心から頷きながら読んで下さる読者の必ずあることを信じ、拙い筆を措く事にする。

                                                                    (了)




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  1. 2014/01/22(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 70

 筆者が、現人類の文明に 絶望を覚え ながら、しかし 絶望し切っていない のは、極めて少数ながら現代人の

中にも、この <カタカムナ> のサトリによって、ヨミカエリ得る人々の存在 することを知った故である。

 問題は、そうした人々が極めて少数であり、且つバラバラに多数者の中に散在して、めいめいで 無駄玉を空しく放出

して終る有様にあることである。いかにすればそうした人々が、自分たちの果しうる役割をハッキリと認識し、マトモに

自己を鍛錬することによって 自身の生存を全うし、お互いに連携すること が出来るようになれるか?である。

 相似象会誌は、そうした人々の為のものである、というのはその意味であり、筆者が、潜在能力のあるアワ型人間の

発憤を求めるのも、その意味である。






  1. 2014/01/21(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 69

 しかし人間以外のものは、サヌキ・アワの別はあっても、そして又それぞれの 「性」 によって、自分の生命を

完全発揮して生きている点では、現人類以上の自然サを持っていても、その自分たちのサヌキ・アワの 「性」 を

認識に出し、自他を反省し、まして、逆に 自己を教えかえす 等というワザは、思いもよらぬことである。

 それこそ現人類が、いかにスベってもコロんでも、人間であればこそのハタラキ であり、我々に具わるこの

「大きなアタマ」 がなければ望むべくも無いことなのである。

 有史以来三千年の歴史は、この大脳の使い方の、一方的発達による弊害 をみせてくれるものであった。今や

我々はあとの半面を開発し、眠れる脳を覚まして、平衡的な発達 を遂げる方向へ進むべき機が熟したと考えるべき

である。(日本民族のカミ(起源)にあった <カタカムナ> の <フトマニ> のサトリは、その 平衡的な文明の原型

を示すものであったのである。)






  1. 2014/01/20(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 68

 例えば今日でも、酒や水の鑑定をするものは、電気計器やコンピューターではない。人間の感覚以上に、その微妙な

差異を計れるものは無いのである。

 宇宙探索のロケットからもたらされる情報を最終的に解析し判断するのも、もはやコンピューターではない。

(芸術家の感覚や芸術作品の評価はいうまでも無い。)

人間の高度の感覚 は、いかに精密な機械にも無いものであり、また、動物の感受性にも無いものである。それは

疑いも無く、人間の高度の大脳智能の介入 によるものである。

 それは我々の、この 「大きなアタマ」 なしにはあり得ぬハタラキである。

 我々人間も 「動物」 であり、全ての生物と同様に、サヌキ・アワの性別をもっている。






  1. 2014/01/19(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 67

 現代人の多くが動物以下の愚行に落ちているからと言って、『原始の自然に帰る』 とか、また、自由恋愛などと称して

人間が 『動物的になる』 とかということが、最先端の理想であるかの如くに説くのはマ違いである。

 あるいはまた、植物的な生き方が好きだと言う人々も、それなら人間として 『植物的に生きる』 とはどういうことか?

という具体策が明示されねばならぬ。(実際に於いて人間が、原始に戻ったり動物になったり植物になったりすることは

不可能な問題であり、その志はよいとしても、いずれも、観念の空転 にすぎぬものになってしまう。)

 筆者は、現人類の 感受性の劣化 と、大脳智能 の本性からの 逸脱、眠れる脳 等という問題を強調してきた。

しかしながらそれは一般論であって、後代人の中にも現人類の中にも、高度の感受性と大脳智能を発揮 した人々の

存在することを認めている。






  1. 2014/01/18(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 66

 日本人は昔から 民族のチエ をもって、このことの大事さを 「胎教」 として教え、また 「三つ子の魂百まで」 の

諺として警告し、全ての母親の、最も大事な諭し として来たのであった。


 古来あらゆる宗教が教えて来たことも、要するに人々に <アワ> の性を養わせることであった。しかし彼らには

<サヌキ・アワ> のサトリが無かった。カタカムナの上古代人は、<サヌキ・アワ> のサトリの根拠に、生命の

基底波 (オホナミ) のサトシまで明示していたのである。






  1. 2014/01/17(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 65

  この容易ならぬ事実に深く気が付いたのは、・・・同じ教え方をされてもスクスクとアワ性の養えるものと、サヌキ性

ばかりシタタカになり、一向にアワ量の増えぬ者とがあるということが私共の実験の途上に於いて、ハッキリと現われた

からである。

  
 人間の心の根に (すなわち <ミ> の波動に)、<アワ> の性を養ってアワ量を増す事の出来る為の条件とは

何か?

 私共はこの問題を突き詰め、それを 「生命の基底波」 と呼び、「逆序のサトリ」 と称して、最も重要視している。

 何故なら、アワの性は、大人になってしまってから、人間アタマの努力によって養えるものではないからである。

<アワ> の心は、そもそも人間の子の発生時に、母と子の間で、生命の共振波動 (<ミ> の生命カン) として、

マットウに授受されていなければならぬものであり、それが一生、その人の サヌキ・アワの性を発生する根源

となるものである。






  1. 2014/01/16(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 64

 <アワ> の性と生命の基底波

 読者の耳にタコが出来るほど筆者は、繰り返し、『アワ性を養うしかない』 『知らぬマに養われて

いたモノ』 『生命の前駆流』 『生物普遍の生命の共振波動』 『生命カン』 等と述べて来たが、

そして誰でも、生きている限りアワ性を持たぬ者はないのであるが、しかし、<アワ> の性を

「養う」 とか 「アワ量を増す」 ということは、実は生易しいものではない。

 なぜなら、養うことができる為には、「根」 が無ければならぬ。そして、生きている限り、やはり

「根」 のない者はないのであるが、その 「根」 に、アワ性を養うことの出来る条件 が具わって

いないと、いくら自分では養おうと思っても (サヌキ性は養えても) アワ性を養うことは極めて、

難しく、アタマでサヌキ性を養ってみても、ココロの向上性は増さず、アワ量はふえない

のである。






  1. 2014/01/15(水) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 63

 要するに 『アワ量を増すこと』

        『アワ性を鍛えるしかない』

 ということが、相似象学の <サヌキ・アワ> のサトリの結論らしい、と、カンの良い読者は

頷いていられるであろう。

 ところで、『肝腎の 「アワ量」 とは何か・・・?』

 この大きな問題の解答についても、カンの鋭い読者は、既に把握されているものがあるに

違いない。ただし、何となくの 「カン」 ではなく、<アワ> という上古代語の意味思念を、

ハッキリと感受し認識する 「直観」 に至るまで、どうか会誌を読み込み、これから始まる

カタカムナのウタヒ八十首の解読を、ミを以て吟味し続けて頂き度い。

 アワ量とは何か?という解釈を、今、ここで繰り返すことを敢えて筆者が避ける理由も、また、

カンの深い読者はもはやお察しであろう。<アワ> について、まだハッキリとした感受の無い

アタマに、いかに正確な <アワ> の定義を述べてみても、ミのない大脳次元の 「理解」 で

「記憶」 されるだけでは、何の意味も無いことが明らかだからである。






  1. 2014/01/14(火) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 62

 『女ならでは夜の明けぬ国』 と日本人が古来何となくうたって来たのも、生身の女性を上位に

すえて、おだてたり拝んだりすることでは無く、この言葉の根拠も、『女性も男性も <アワ> の

性を鍛えるしかないのだ』 という <カタカムナ> のサヌキ・アワのサトリにあったのである。

(「元始女性は太陽であった」 というのはマ違っている。いうなら太陽はサヌキであり、女性は

太陽をも生むアワでなければなるまい。)






  1. 2014/01/13(月) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 61

 それでも私共は、(それが世に認められるか否か?はもう問題ではなくて、) 自分の生命の

ある限り、自分の生活に関わってくるものには、まだ使えるビニール袋一つにも輪ゴム一個にも、

正常にヒビク微波動をもち、しかしそれに こだわる大脳を育てず、自由に自分自身を教えて、

自分の生命を全うしながら、自分と同じ世に生き合う万物万象に、「アマの心」で接して行くしかない。

 それが天然態というもの であり、アマの心にヒビク微波動が、一個の輪ゴムやビニール袋なぞ

には例外ということはあり得ない。微波動鍛錬の大事サのわからぬ者に、自分のアワ性が養える

筈がない、と私共は考える。






  1. 2014/01/12(日) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 60

 しかし私共はもしかしたら、というよりおそらく、一本の釘、一個の輪ゴム、使い捨てのビニール袋

などが一々分類してしまいこまれながら、結局、ごみと一緒くたに捨てられてしまうのと同じ運命を

たどるものかもしれない。

 カタカムナのサトリを知り、自分では一生懸命鍛錬していても、カタカムナ文献を正当に世に出す

トキを得ず、空し亡んで行く民族と、運命を共にすることになってしまうのかもしれない・・・。






  1. 2014/01/11(土) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 59

 その方がはるかに動物的なたくましさをもって陽気にふるまえることがわかっていても、アワ型

人間は、決して、そのような行為を、自分に強制して、無理なサヌキメッキをするものではない。

その為にこそ、そもそも日本語の起源には、サヌキ・アワのサトリが示されていたのである。

 ここまでつきとめ、わきまえた上で、他者に向かって 出来ないことを求めず、大きなことは言わず

その代わりに、まず、自分自身の一個から、人間として最もマットウな生き方を始めよう。

というのが、私共の相似象学なのである。





  1. 2014/01/10(金) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ

後書 (純粋の贈り物を捧げる気持ちで) 58

 逆おろしされる様なおもいに耐え続けなければ今の世には生きられず、それで 擦り切れぬだけ

の鍛錬
 を積まなければ、アワ性は向上しない。

 生命のあるものを平然と見殺しにし、まだ役に立つものを罪悪感もなしに使い捨てにできる者は、

幼少期にアワの心を養成されぬ まま大人になった低次のサヌキ型人間である。

 人間社会だけに通用する天然自然のスジの通らぬ生き方を強要される現代社会に、心からの

居心地の悪さ、やり場のない憤り を覚えるたちが、そのような自分の心がどこから発するのか?

自分の本性が何なのか? をハッキリとつきとめることが、先ず必要なのである。

 そしてスジが通ろうが通るまいが、そうしたことを気に病む心は持ち合わさず、ひたすら安易につき

自己の快楽を求め、失敗は他人のせいにし、責任は転嫁し、人間でありながら 『人でなし』 の行為

を平然とやってのけられる人々とは、自分は 本質的に違うのだ ということを、ハッキリと認識しな

ければならない。








  1. 2014/01/09(木) 00:00:00|
  2. サヌキ・アワ
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